真備の笑顔のために

【レポート】二万地区の動き

2020年4月2日

二万 活動報告

二万地区の歴史

二万地区は古くは,邇麿(にま)または爾麿(にま)と書かれていました。

二万の歴史を紐解くと660年白村江の戦いにさかのぼり、百済よりの救援に対して斉明天皇,中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝鮮出兵を決断します。

真備町二万地区より二万の兵が集められたというのは,二万(邇麿)の地名を説明するためのこじつけだったそうですが、日本の古くからの朝鮮計略には吉備地方の豪族が利用されているので,白村江の戦いの時にも,この地方からかなり大量の兵員が送り出されたことは間違いないとされています。

本来の地名の由来は、邇(に)は丹(に)に通じ,邇麿郷は水銀等の鉱産物を産出し加工する村という意味でありました。

二万地区の反古山(ほうぐやま)には西金山,東金山の地名が残り,古い鉱山の跡といわれています。

そんな二万地区ですが、真備町の南端に位置し,地形の大半は丘陵地で,斜面はぶどう畑に利用され、ほぼ中央を流れる小田川の支流二万谷川沿いに平地(水田)と集落があります。

昭和50年代初めには、水島工業地帯のベッドタウンとして大規模な住宅団地もできました。

 

2018年西日本豪雨発災時にはそのほとんどが浸水は免れたましたが、生活は一変しました。


発災からこれまでの歩み

二万小学校は被災された方たちの避難所となり、主にまちづくり推進協議会が中心となり、避難所運営を行いました。炊き出しを行ったり、生活用品などを二万地区住民から集め、被災された方へ届ける活動も行っていたといいます。初めての避難所運営に重なり、たくさんの外部支援が団体・個人ともに入られたり、支援物資の拠点にもなり、それらの受け入れ、管理、分配などの調整役がとても大変だったとのこと。

そんな混乱の中でも、被災した方たちの生活面のサポートもさることながら、コミュニティに対する支援も行っていった二万の人たち。

もともと地区で行っていたサロン活動やイベントなどに避難所の人、仮設団地の方たちも参加できるように声掛けをおこないました。


発災2か月後の2018年9月には二万小学校となりに建設仮設住宅ができ、10月には入居者・まちづくり推進協議会・社会福祉協議会・外部支援・行政などを含めた交流会を開催し、その後は自主運営をスタートするため説明会なども実施しました。

ここでも仮設住宅で生活を始めた人たち同士が繋がれるように、仮設団地の集会所でのサロン開催や夜の食事会、お花見会なども開催しました。

仮設団地でのサロンやイベントで、そこの地域の方々が共に参加できたことは、避難してきた皆さんにとってとても大きなものだったと思います。

また、発災を機に防災を一人一人が身近に受け止められるようにと、『自分を守り、家族を守り、向こう三軒両隣に声掛けして、皆で逃げる』をスローガンとして、仕組みづくりと組織づくりに取り組んでいます。そして、西日本豪雨災害の教訓を風化させず、次世代まで語り継ぎ、やすらぎの里を守りたい、そんな思いで地区民全体で取り組んでいます。


地区のイベントなどを通常通り行いながら、支援も並行して行う。そして、災害を自分事として捉え住民みんなで防災への取り組みも行っている二万地区。皆さんの普段からの地域との繋がりの強さの賜物なのではないかと思います。

二万地区のみなさんの暖かさ。これからも地域の絆を深めていく二万の皆さんから目が離せません。