真備洗浄 Vol.2 〜真備地区と深くかかわり、発災と向き合う福井圭一さん〜
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平成30年7月豪雨災害が発生したとき、真備地区には団体・個人問わず多くのボランティアが訪れ、復興に向けてさまざまな取り組みがおこなわれていました。発災から3年半以上が過ぎ、ほとんどの活動が終了を迎えているなか、現在も活動を続けている団体がいくつかあります。
そのうちのひとつが、真備町写真洗浄@あらいぐま岡山(以下、真備洗浄)です。活動を始めたひとりでもある福井圭一(ふくい けいいち)さんは、発災をきっかけに真備に来て、そのまま拠点を真備に移したそうです。
福井さん自身が写真洗浄を始めた経緯や、現在の真備での活動について話を聞きました。
東日本大震災より始まりました
―福井さんが写真洗浄を始めたきっかけを教えてください。
福井:
東日本大震災のときですね。震災が起きた後、何度も現地を訪ねました。自転車を持って毎回ひとりで行っていました。元を辿ればそこに行き着くと思います。最初の1年で20回以上行ってたんじゃないかと思います。何でこんなことしたかと言えば、元々行く予定だったからです。
この時のことは、本当に何と言っていいかがわからないです。適切な言葉が見つかりません。生きてる意味さえ問われました。価値観全てが変えられてしまったような、大きな影響を受けたと思います。これがなければ今はやってないです。
実際の写真洗浄は、少し後になってから。東北ではなく、僕は東京でやってます。2011年8月、当時住んでいた家の近くに写真洗浄をしていた場所があったんです。「あらいぐま作戦」と言いました。そこに通い始めたのが直接のきっかけです。「洗う」から「あらいぐま」です。「りす会」という別名もありました。動物好きの心優しい人が多かったから、そうなったんだと思います。しかし活動は朝9時から夜9時まで毎日という、全く優しくない内容で。やっていくのが大変でした。近くに住んでいた僕は時間があるかぎり行きました。そこから始まってます。
被災地各所に「思い出の品返却場」というものがありました。流された写真を展示しています。持ち主が判らない写真がほとんどでしたので、被災された方はここへ捜しにいってました。
当時は東京や横浜など、被災地から少し離れたところで写真洗浄するケースが多かったです。被災地から写真を送ってもらって洗浄して返す、というスタイル。現地でなくても写真洗浄はできます。東北の被災地は壊滅的被害を受けたところが多く、継続的に人を集めてやっていくには難しいところもありました。その点で都市部の活動は一定の役割を果たしてきたと思います。
そのような活動が全国各地で行われました。本当に全国至るところで行われました。写真洗浄に限らず「災害ボランティア」という助け合いの意識が顕在化したのも、この災害が大きかったと思います。
文化のひとつだと思いますよ。生きていく術。もともと助け合うことは、当たり前だったと思うので。
倉敷で写真洗浄が行われたこともあるんです。来てから知りました。その写真を、巡り巡って僕は東京でデータ化していました。全く知りませんでしたけど。思いもよらぬところで繋がっていたんですね。そういう意味では僕は善意を信じます。良いことが連鎖します。
東京の活動は洗浄とデータ化両方あり、なかなか終わらなくて。何度か場所や形態を変え続きました。完遂するまで2016年までかかりました。それが個人的には活動の第一期です。長い長い一期でした。
―あらいぐまの活動として、こちらにいらっしゃったのですね。
福井:
ええ、結果的にはそうです。あらいぐまとして来たことになりました。僕にとって倉敷・玉島は父の出身地で福井家の実家がありましたので馴染み深い場所です。子どもの頃には夏休みになると遊びに来ていました。学校の先生だったお爺ちゃんに英語を習っていました。今はみんな居なくなってしまい、玉島の家はもうないです。玉島の隣が真備でしたので、他人事ではありませんでしたね。
必ず写真洗浄の必要が出てくると思いましたし、町内の動向が気になりました。周囲の写真館さんが動かれていましたね。自分に伝えられることがあるかな。自分にしか伝えられないこともあるかな。こりゃ行った方がいいかな。
ちょっと考え。墓参りも兼ね、とりあえず来ました。
最初は「とりあえず」といった感じです。ずっと居る気はありませんでした。どうして来たと、たまに聞かれますけど。ちょっと馴染みがあった。そもそも写真洗浄をやっていた。条件が合ったんです。
いつも通り自転車を輪行して。伝えることは伝え。用が済んだら、しまなみ海道でも走って帰ろうかなと。非常に不真面目な渡航でした。熱意が高い人が沢山来ていたと思いますが、僕にそこまで熱意があったかと言うとあやしいです。久々に倉敷に行くのが嬉しいくらいでした。ただ確実に伝えることはあるなと、それは思い。
ところがですね。来たら来たで、のめり込まれていくんです。
帰れないことになってしまいました。
―お仕事はどうされていたんですか。
福井:
2018年は友人とやってたデザイン事務所を抜けてひとり独立した年です。抜けたばかりで、そのタイミングの出来事でしたので、ある程度長期的に居ることもできたんですよね。仕事に関しては話すと長くなるので省略しますが、あまりハッピーな独立ではなかったです。沢山の仕事を失いましたし、何しろお金がなかった。無収入になりそうなところ、一つだけ受注が繋がり持ちこたえることができました。遠隔で出来る仕事だったので、Wi-Fiさえあればどこでもできます。それで上手くいってます。それがなかったら真備には来れてなかったと思います。感謝してもしきれません。
―真備で写真洗浄が始まった経緯を教えてください。
福井:
真備で写真洗浄を始めたのは、先行してやっていた笠岡の写真洗浄が影響しています。一週間くらいで帰るつもりだったんですが。そうはいきませんでした。どういうわけだか僕は途中で捕まってしまい、笠岡で写真洗浄やることになっていました。見過ごされがちですが、小田川上流、矢掛から笠岡にかけても被害がでています。洗浄待ちの写真が集まっていたので、それをやりました。ローラー作戦もしています。
そこから真備の活動へと繋がってゆきました。最初の頃は真備では写真洗浄が立ち上がっていなかったんですね。外部支援として手が差し伸べられることはありましたが、僕は真備に活動が必要と思ってました。どうしても限定的になってしまいますし、見過ごされる人がたくさんでます。現地にセンターが必要なんです。しかし被害が大き過ぎて、時間が必要だったんですよね。
9月に入り社協さんと合意し、やることになりました。同じ考えの有志が何人も居たこと、そして社協さんの「やりましょう!」の一言があり一気に動きました。最初は「実践講習会」という名目でした。やってみないと分からないところがあったし、何しろ僕は方法をお伝えしたかったです。依頼が殺到しましたね。やはり必要だったんです、そこから3年半。今に至ります。まだやっています。
―どうしてそうなったんでしょうか。
福井:
本当に必要なことだったので、それに気づいたんだと思います。時間とともにそういう考えの人が増えました。最初は「それどころじゃないよ!」と言われたもんです。事情を考えればそうなんですが、後から取り返せるものとそうでないものがあります。写真はお金で買い直すことができません。どういうものかは皆さん知っての通りです。「成長記録」なんて言葉があるように、生きてることと密接に結びついてます。
しかしわりと蔑ろにされがちなんです。個人の私物で、ただの紙ですから。命に関わることではありません。なくても生活上困ることはないです。そんなことは自分で判断してよとなってきます。公的には守られない領域に入ってくるんですね。
ですので自分で守るしかない。しかし大変です。被災を受けた状況では困難を極めます。であれば巷の人たちで守るしかない。それが写真洗浄の活動だと思います。写真が大切なものだと共感する人たちに救われています。それが心の拠りどころになることを皆知っていますし、なくなったら悲しいこと、戻ったら嬉しいことも知っています。共感により成り立っている活動だと思います。
洗浄の募集をしたところ依頼が殺到しました。やっぱり大切なものだったんですよね。
そこに住んでいる人の写真を守ることは、地域の文化を守ることと同義と思います。
―それで住民の写真が救われることになったんですね。
福井:
一面はそうです。沢山依頼を受けました。しかし実際は未着手のまま、考える余裕すらなく破棄されてしまったケースが多いです。それはとても辛いことでした。悔やみきれません。最初は片付け優先だったので、多くが災害廃棄物と一緒に行ってしまいました。写真が救えることが、あまり知られていなかったことがあります。暑さと毎日の成すべきこと。重圧。その中で、写真のことなど考えてられないですよ。
だからこそ冷静に考えられる人の助言がもっと必要だったと思っています。僕らの活動がもう少し早く立ち上がっていれば。少しは違っていたかもしれない。何度も考えたことです。
しかし後戻りはできません。これは教訓として活かしていくしかないです。災害はまたどこかで必ず起きます。その度に伝えていくしかないと思っています。
幸い真備の活動が注目されたこともあり、また参加していただいた方のお陰で、以前より周知が進んだなという実感があります。
これからも皆さんよろしくお願いいたします。
―いろんな場所で写真洗浄が行われているようですが。
福井:
真備洗浄では信頼する各地の団体さんに、写真を送ってやっていただく「アウトソーシング」ということをしてきました。このことにはとても助けられてきました。東北の写真をやっていた時と同じようなことです。
個人的にはいつの間にかお願いする側になっていました。お願いされる側のことはよく知っています。一番大切なことは相互理解だと思います。信頼関係を築くことが欠かせないです。写真洗浄だけではないですが、グループで何かやりたいというだけでは成立しないと思います。そのことは重視していました。
真備洗浄をサポートいただいた方々には、本当によく理解していただいていたと思います。誠意を感じていました。
山口・出雲・明石・神戸・大阪・信楽・可児・三浦・横浜・武蔵野・石巻…。市内では連島。岡山市内でも活動が行われました。岡山から派生して、九州で作業されていたこともあります。学校内の活動、企業内の活動、個人の活動…。
とにかく沢山の方に助けられています。毎回交通費を掛けて来なくてもいいので、理に適った活動だと思います。真備洗浄が窓口でしたが、全ての方の協力で成り立っていたと思います。
この信頼関係は、次の災害にも有効になってくるんじゃないかと思います。長野や熊本で災害があったときは、僕らはサポートする側に回りました。新見で発災したときは、いち早く真備のメンバーが動き、新見写真洗浄を立ち上げています。佐賀や熊本で活動を始めた方は、真備洗浄に来たことがある方です。いろいろ活きるんです。
幸せに活動する必要
―活動をするうえで、ほかにもこだわっていることはありますか?
福井:
活動の中心はボランティアさんだと思っています。ここに来る方の福祉のようなことはよく考えます。やってる僕らも人間なので、幸せに活動する必要があります。互いを尊重し合いながら、気持ちよく作業ができる。そういう環境を心掛けました。それぞれの人を大切に思います。
それ以外のこだわりは特にはないです。作業や運営に関しては、こだわり過ぎると袋小路に入るというのが、これまでの活動で分かっています。こうあるべきというのは人を窮屈にします。窮屈だと続きません。ときどきリセットしたり、複数の考えを並列で考えたり。身軽でいたほうが、うまくいくと思ってます。こだわり過ぎないことに、こだわってます。
写真洗浄以外でも、真備のために活動を
―福井さん自身は、現在どのような活動をしていますか?
福井:
写真洗浄はボランティアでやっていますが、本業のデザイン制作を通して町と関わることも多くなりました。受注業なので、お願いされてやるというところはどちらも近いです。いまこの町に必要なことはたくさんあるので、それに自分が必要ならやるという。シンプルな動機です。
いろんなことをお願いされるようになりました。できそうだったらやってます。デザイン制作の枠はかなり越えてますけどね。他にやる人も居なそうだなぁ、適任は自分かもなぁと思ったらやってます。そのことで町が豊かになったらいいです。僕も関心があるからやってます。
取り組んできたことのひとつに、災害記録誌・災害検証誌作りというものがあります。真備地区のまちづくり推進協議会(まち協)さんからご依頼をいただき、やってきました。
川辺地区は「災害を忘れないで」。岡田地区は「岡田を災害に強いまちに」の“にげる編”と“いきる編”があります。「災害と子育て」という冊子も作りました。
真備地区の皆さんより「災害を振り返り、記録に残したい」という要望があることを聞いたとき、絶対自分はやるべきだなと感じました。少なくともこの地に居るということ。3年半ここで過ごしてきたこと。そしてこれが本業です。やらない理由はないです。二つ返事で引き受けました。
やって良かったです。いろんなことが知れましたし、理解できました。
防災冊子はこれまでもいくつか作ってきました。いずれも公的なものです。全く違いましたね。制作過程からして違ったのですが、中身が違います。住民目線で感じた、体験に基づいた内容を住民が形にしたものです。願いが込められているなと思いました。
制作は時間がかかりましたね。さらに難航しました。振り返ることは簡単ではないです。コロナがさらに影響しました。何十人もの方にインタビューし、何度も協議を重ね完成しました。
―東京には帰らないんですか?
福井:
この間、東京には2年近く帰っていませんでした。両親が居るので時々は帰りたいんですが、結局できませんでしたね。もちろんコロナのせいです。それに尽きます。憎くくてしょうがないです。しかしやることが一杯あったんで。濃密な2年間でしたよ。幸いにも真備でいろんな方と知り合えて、一緒にお仕事していく関係になれたので、良かったです。写真洗浄やまち協さんたちとの関係が心の支えでした。充実してたので、帰る帰らないは忘れてました。僕はもともと場所や所属より、やっていることに価値があると考えていますので、いろいろできて良かったです。これからもやっていきたいと思っています。
―福井さんはもう“東京から来た人”ではなく、“真備の人”と認識されていると思います。
福井:
どうでしょうかねー。超難関ハードルじゃないですか。僕はまだこの町のことを一部しか知らないと思います。”真備の人”と自認できる域には達してないです。皆さんとの関わりが楽しいので、そう思っていただけるのは嬉しいですけどね。
チャリンコの半ズボン居るよーってよく言われます。何だかわからんけどよう見るよなって存在。そんな感じで慕っていただけたら嬉しいです。仲良くしてください。
近ごろは岡山弁が移ってきちゃってね。初心者の、語尾だけそんな感じになるやつです。ぎこちないです。しかし「おえん」が出ちゃったときは、いよいよ染まってきたなーって思いました。どうなっちゃうんでしょ。
―真備支え合いセンターでやっている取り組みについて教えてください。
福井:
真備支え合いセンターさんと、動画を作ることになりました。真備地区を離れて暮らす方々より、「最近の真備がどうなっているのかわからない。様子が気になる……」そんなお声があったようでした。気になるんだけれど、少し気が引けてるような、そんな印象を受けました。
とてもとても気になりました。この町で起きたことは複雑な結果をもたらしています。生活そのものが一度変わりました。そして町に戻らない決断をした人も居ます。
日常だった場所がもう日常でなくなったとき。どう感じるでしょうか。
思いますけど、町民でなくなっても“真備の人”だと思いますよ。町への愛着があるなら、それでもいいじゃないですか。僕が“真備の人”と言われるなら、もう絶対に“真備の人”なんです。その思いには応えたいなと思いました。
それでまず真備に来てほしいなと思ったんですが。すぐには難しそうでした。コロナで無理という話もあります。センターの皆さんと相談して、今の真備を伝える動画作品を作ったらどうだろうかという話になりました。言ってみればPVですね。
「あれからの真備」というタイトルになりました。
―どんなPVなんでしょう。
福井:
17分ちょっとのロードムービーになりました。ちょいちょい人も出てきます。今の真備を映像と写真でひたすら映しだしたものです。脚色の必要もありませんでした。そのまま今の姿です。現在進行形なので、あちこちが工事中でした。どう感じるかは人それぞれと思います。真備に愛着を持つ全ての方に向け作られています。
もしかしたらこの映像は今しか撮れなかったものかもしれません。しばらくしたら、また変わってしまいます。現在を切り取った真備の一面。そんなPVになりました。
YouTubeで公開されましたので、是非見てください。
―今後の活動はいかがですか?
福井:
必要なこと、求められることをやることには変わりません。そして面白そうだなとか、楽しそうだなと感じることはやっていくでしょう。僕自身興味がありますし、そう思っていれば、周囲の人も楽しくなっていくんじゃないでしょうか。そういう機会を増やしたいです。
この先どうなっていくかは、誰にも分かりません。これからの町を考えていこうという動きもありますね。期待しています。
それぞれの人が次の生活を始めています。
無理せず今と向き合うということに尽きると思います。僕もそうします。
できれば楽しく平和に過ごしたいですね。
良いことを信じます。