まちづくり推進協議会に聞く服部地区の様子Vol.1 〜災害発生時の服部を振り返る〜
服部 活動報告
平成30年7月豪雨災害から4年半が経ちました。町内全域で甚大な被害があった真備町では、地区ごとに築いていた人と人との繋がりを通して、今日まで復興に向けた活動を続けてきています。
真備地区は大きく分けて、川辺・岡田・薗・二万・箭田・呉妹・服部の7つに分かれており、それぞれにまちづくり推進協議会があります。地域コミュニティの中心的な役割を担っていて、平成30年7月豪雨においては復興に向けた活動を行いましたが、会の運営そのものにも大きな影響を受けました。
なかでも服部地区は約7割が被災し、自宅の2階まで浸水した場所も少なくありませんでした。災害発生時はどのような状況だったのでしょうか。服部地区まちづくり推進協議会 会長の中尾研一(なかお けんいち)さんに、話を聞きます。
ほとんどで浸水被害があった服部
―災害発生時、服部地区はどのような様子でしたか?
中尾:
服部は7割が被災し、ほとんどの家が水に浸かりました。田んぼが多い農村地帯のような場所なので、米づくりは全くできなくなったんです。
私は町内のみなさんに声を掛けたあと避難しました。服部は避難所がないので、別の地区の避難所に行く人もいれば、親戚の家に行く人も。私は岡田小学校に行ったのですが、「いっぱいだから薗に行って」と言われまして、薗小学校に避難していました。いつもだったら車で15分くらいで行けるのに、この日はみんなが避難していたから1時間はかかっていましたね。
7月7日の夜中1時頃に小田川の堤防が決壊したといわれているのですが、数日間は家に帰れませんでした。7日の夕方にやっと県道が見え始めて、家に行けたのは9日。着いたら家の中はめちゃくちゃでした。私の町内は2階まで浸かっていたみたいです。
要援助者には親戚に電話。町内に1人も残さず避難
―服部には、避難所がないのですね。
中尾:
そうなんです。低地は川に囲まれているから危ないし、山側は土砂災害の危険地域になっていましてね。高いビルもないから、避難場所がないんですよ。
―当日は、どのように声を掛け合って避難したのですか?
中尾:
服部地区は11の町に分かれていて、それぞれで声を掛け合って避難したと聞いています。私の町内は、私から声を掛けさせていただきました。
7月6日、私は21時頃に家に帰りました。帰宅途中に車の中から小田川や高梁川を見たときは「だいぶ増水してきたな」と思っていました。帰宅後、心配になって堤防を見に行ったんです。そしたら排水機場で職員の方がポンプを回していましてね。「溜まる水とポンプの動きとのバランスが取れなくなってきた。このままだと中尾さんのところは浸水するかもしれない」と言われたんですよ。
そのとき思い出したのは、昭和51年に経験した床下浸水でした。台風があって、用水路が氾濫したんです。あと1日雨が降り続いていたら、床上まで被害が出るところでした。今日は避難した方がいいと思って、町内を周って状況を説明し「避難準備をしておこう」と声を掛けたんです。寝ている人には家に帰ってから電話をかけて、起こしました。
自力で逃げるのが難しい人は3人おられましてね。日頃から高齢者の見守り活動をしていて、災害時に支援をする必要があるのは分かっていたので、それぞれ親戚の方に迎えに来ていただくよう連絡しました。うち1人は隣に住む人で、「一緒に逃げよう。1人残すわけにはいかないから」と、一度は断られたけどなんとか説得しました。
そして22時頃、広報車が周ってきて「避難勧告発令されました」とお知らせしてくれました。だからもう1回町内を周って「避難しましょう」と声を掛けて、それぞれが思うところに避難したんです。
まさか堤防が決壊するとは思いませんでしたが、ああいう大きな被害が出て、避難してよかったなと思っています。
災害時の支援体制づくりは、これからだった
―話を伺うと、災害への備えができていたように感じます。
中尾:
それが、そうでもなかったんです。
平成30年4月に自主防災会を開いて、地域のみなさんと勉強をしましてね。「もう平時の見守り活動は定着したから、それは続けるとして、災害時の支援体制づくりに取り掛かりましょう」と話していたばかりでした。
さあ各町内に帰って、どういう体制がいいか話し合いをしようと言っていた矢先の災害だったものですから。申し合わせはできていませんでした。
ただ私は床下浸水の経験があったので、「前も被害があったし」と伝えながら声を掛けられたのがうまく繋がって、命拾いをしたというか。町内の方からは「中尾さんから連絡来なかったら、寝ていて死んでしもうていたわ」と言われたこともありました。神様がもう少し生きろと、言ってくれたのかなと思っています。
1人ひとりの声が、支援の充実に繋がる
―災害直後の服部は、どのような様子でしたか?
中尾:
避難所はないし、岡田や川辺のように地区が大きくないから、支援が届くまでに少し時間がかかっていました。でも、ボランティアの方や地域のみなさんに助けられまして。連携を取って、少しずつ物資が届くようになりました。
例えば、ある方が過ごしていた避難所ではたくさんの物資が届いていたそうです。そこで「服部に物資を分けてもらえないか」と避難所の方に掛け合ってくれまして。車に乗せられる範囲の物資を持って、服部に即席でサテライトをつくってくれたのが始まりでした。
その後は山手にある自動車の板金工場の跡地をお借りして、定期的に集いの会をやったり炊き出しをしてもらったりしましたね。バラバラになった服部の人がそのときは戻ってきてくれて、情報交換などをしていました。
あとはボランティアの方と一緒に、助けが必要な人はいないかを1軒ずつ周って声を掛けていきました。これも、ボランティアの方が私に相談してくれたんです。「服部にもまだボランティアの手が必要なところがあるんじゃないか。自分たちだけで周るより知っている人がいた方が安心するだろうから、一緒に周ってくれないか」と。
話を聞くと、「ボランティアを頼んでいるんだけど、まだ来ない」や「どこまでボランティアに頼んでいいのか分からない」などいろんな声がありました。ボランティアの方も積極的に声を掛けてくれて、助かりましたね。「リフォーム前の掃除が大変だろうから、大工さんが来る前にやりますよ」などと具体的に声を掛けてくれたから、頼れると分かってみんな安心していましたよ。本当にありがたかったです。
―中尾さんご自身も被災されて、ご自宅の片付けをしながらの活動でしたよね。
中尾:
そうですね。地域の会長を仰せつかっているので、何もしないというのもね。地域のみなさんがいろんな情報を教えてくれたので、非常に助かっていました。
そうそう、ユニクロさんに支援をお願いしたのも地域の方の声がきっかけでした。川辺に最初に支援していたみたいで、川辺に避難していた方がユニクロさんからの支援を見たと。「中尾さん、服部も支援してもらうわけにはいきませんかね」と言われて、私からユニクロさんに電話をしたんです。「試作品だったら」と言っていただいて、下着から上着まで1000品くらい送っていただきました。
この日はユニクロさんへのお礼を書いてもらって、模造紙に貼って、感謝の気持ちをお伝えしたんです。「支援して初めてこういうものが届きました」と言ってくださって、よかったなあと思いました。