まちづくり推進協議会に聞く呉妹地区の様子Vol.1 〜災害発生時の呉妹を振り返る〜
呉妹 活動報告
平成30年7月豪雨災害から4年半が経ちました。町内全域で甚大な被害があった真備町では、地区ごとに築いていた人と人との繋がりを通して、今日まで復興に向けた活動を続けています。
真備地区は大きく分けて、川辺・岡田・薗・二万・箭田・呉妹・服部の7つに分かれており、それぞれにまちづくり推進協議会(以下、まち協)があります。地域コミュニティの中心的な役割を担っていて、平成30年7月豪雨においては復興に向けた活動を行いましたが、会の運営そのものにも大きな影響を受けました。
呉妹地区は被害に差があり、大きなところでは2階の天井近くまで浸水するほどでした。災害発生時はどのような状況だったのでしょうか。呉妹地区まちづくり推進協議会 会長の高槻素文(たかつき もとふみ)さんに、話を聞きます。
自分たちのことで精一杯だった
―災害発生時、呉妹地区はどのような様子でしたか?
高槻:
呉妹地区では、家屋が被災したところと被災していないところが半々でした。私が住んでいる集落は7割くらいの家が浸水しました。
当時の私は倉敷市真備公民館 呉妹分館の館長だったんです。自分たちの地域が落ち着いてからは分館で物資を受け入れていたけど、災害直後はね……。なかなか行けなかったです。自分の家と、自分の集落のことで精一杯。みんなそうだったと思います。
災害の前日から大雨が降っていたでしょう。私は農業土木委員もやっていました。午後4時過ぎに隣の集落から「ため池の堤防が壊れそうなので、入水を止めてもらえないか」との依頼があり、谷を登り水の流入を他の池に流すようにしました。後日、流入変更箇所の上部で山崩れが発生しているのを発見。遭遇していたら生きていなかったとそのとき思いました。
池の対応後、内水を排水する淡水防除装置にいる4人のところに行き、内水の様子を見ていました。雨の量が多くて内水がどんどん溜まってくる状況でした。
アルミ工場の爆発音を聞き、ポンプでは排水できないくらいの内水となりました。1時間くらいの間で支所の担当者が来られ、「危ないから放棄してください」と言われ、帰路につきました。小田川の水面は土手の上から手が届く状況でした。夜中の1時くらいのことでした。
家に帰ってから、その日は2階で寝ました。いつもは1階で寝ているけど、大阪に行っていた妻が心配して、2階で寝るように連絡が来ていたものですから。携帯だけ持って、2階で寝ました。2時頃でした。
起きたときにはもう、2階のすぐそこまで水が来ていたんですよ。川が増水しているのは見ていたけど、正直この辺りの川幅は広いし、被害はないだろうと思っていました。驚きました。あとで小田川の堤防が決壊したのを知りました。
子どもが助けを求める声と、自らを助けてくれる声……どうしたらいいのか
―想像以上の被害だったのですね。
高槻:
そうです。寝ているときに「助けて―、助けて―」と子どもの声が聞こえてきました。午前4時頃だったと思います。最初は聞き流していたけど、何度も声がするからおかしいなと思ってカーテンを開けたら、水がすぐそこまで来ていたんです。
眠気眼で階段を下りようとしたら、数段降りたところで足が水に触れてハッとしました。子どもを助けたくても、助けに行けないのです。どうしたらいいか、全く分からなくてね……。
家の裏の窓を開けると、上側に住む団地の人が助けに来てくれていました。「高槻さん、早く出て来なよ」と言ってくれるのですが、屋根瓦は濡れているし、真夏だったから私はパンツとランニングシャツしか着ていないし、前の団地では子どもが助けを求めているし……。どうしたらいいやろうかとまた悩んでしまって、2階から降りることもできませんでした。
結局、団地の人たちがはしごとロープと服を持ってきてくれて、何とか家から出ることができ、子どもは別の人が舟で助けてくれたみたいでほっとしました。
避難所までのメイン通りが通れなくなる
―避難されたときは、どのような状況でしたか?
高槻:
家を出たあとは、同じ集落の人が「坂根集会所に人がいる」と教えてくれたので一緒に行きました。集会所は高台にあるから、被害がなかったんです。高台の周辺に住む人が炊き出しをして、おにぎりを家から持ってきてくれました。避難所にいたのは2晩くらいで、あとは家の2階で寝起きしていました。
ただ指定されている避難所は、坂根集会所ではなくて熊野神社なんです。そこにはもっと多くの人がいるらしいと聞きました。物資はすぐには届かないから「おにぎりを持って行ってくれないか」と若い人にお願いしたのです。
彼らは快く返事をしてくれました。でも、若い人たちは避難所までの道が分からないと言うんです。何でかなと思ったら、山の奥の方に入ったことがないとのこと。大水によって、いつも通っているメインの道は通れなくなっていました。
私は長く住んでいるから、細い道でもどの道を通れば神社まで行けるか分かります。「じゃあ一緒に行くわ」と言って、2〜3人でにぎりめしを入れたビニール袋を持って熊野神社に行きました。多くの方が避難していました。
普段使う道以外の道も、知っておかないと避難できないかもしれない。被災して、初めて気が付いたことでした。
住民同士助け合っていた
―差し入れを持っていくなど、呉妹の住民同士で協力していたのですね。
高槻:
当時はまち協の会長ではなかったですし、災害直後のことは自分たちの集落のことしか分からないけど、呉妹はそれぞれの集落で助け合っていたみたいですよ。会長になってから聞いた話は色々あります。
呉妹は他の地区と同じで、小学校の数はひとつだけ。生まれも育ちも呉妹の人が多いから、昔からの繋がりもあって自然と困っている人を助けていたようです。
まちづくりのときには意見がぶつかることもありますが、最終的にはまとまって協力してくれます。呉妹は人が穏やかで、助け合える人が多いんです。