真備の笑顔のために

まちづくり推進協議会に聞く岡田地区の様子Vol.1 〜発災時の岡田を振り返る〜

2022年3月30日

岡田 活動報告

平成30年7月豪雨災害から3年半が経ちました。町内全域で甚大な被害があった真備町では、地区ごとに築いていた人と人との繋がりを通して、今日まで復興に向けた活動を続けてきています。

 

真備地区は大きく分けて、川辺・岡田・薗・二万・箭田・呉妹・服部の7つに分かれており、それぞれにまちづくり推進協議会があります。地域コミュニティの中心的な役割を担っていますが、平成30年7月豪雨においては、復興に向けた活動を行いましたが、会の運営そのものに大きな影響も受けました。

 

なかでも岡田地区は、住んでいた場所によって被害の受け方に差が出ていた地域でした。発災時も中心となってまちを支えていた、岡田地区まちづくり推進協議会の副会長・岡野照美さんに話を聞きながら、改めて当時を振り返っていきます。

 

被害の差が顕著だった岡田地区

まちづくり推進協議会

 

―平成30年7月豪雨災害の発災時について、最初に思い出すことは何ですか?

 

岡野:
あの時の暑さ、明かり一つない真っ暗な夜、音のない町、岡田の町を土手の上から見た時の悔しさ、絶対災害になんか負けないと誓ったことなど、いろいろあります。「苦しいと笑うしかない」が合言葉でした。

 

岡田地区は小田川から離れていて、地域の3割くらいが北側の高台にあります。水が来なかった地区と水が来た地区があり、南のほうは3m以上水が来た場所もありました。何よりも残念だったのは、水が来たのは7日の朝7時頃、明るくなってからの水害であったにもかかわらず、7名の犠牲者が出てしまったことです。

 

まちづくり活動の基地である倉敷市真備公民館岡田分館(以下、岡田分館)も被災して2m以上水に浸かり、大切な備品や資料などがなくなってしまいました。また役員20人のうち18人が被災している状況で、活動をどう進めるか悩んでいました。

 

まちづくり推進協議会

 

―岡田地区のなかで、被害に差があったのですね。

 

岡野:
そうです。自宅に水が来なかった人たちも、災害発生直後は辛そうでした。自宅は大丈夫でも知り合いの家が浸かってしまっていて、「大丈夫?」と声をかけるのも躊躇する人、「お宅はいいね、被災してないから」と友人に言われつらかった人、「被災した人の顔すら見られない、下を向かないと知り合いが住む場所は通れない」と言う人がいたのです。

 

そして「何かお手伝いがあれば」と私に声をかけてくれました。公民館の片付けや岡田サテライトのお手伝い、行事の協力などをしてくれて、本当にありがたかったです。

 

被害が少ないといっても、自宅に水が来なかっただけです。水道も電気も、止まっている人がいました。避難所に水や弁当をもらいに行くと「あんたんとこ被災していないんじゃない?」と言われたこともあったそうです。そう言われてはいなくても、自分を見られただけで勝手に後ろめたくなるなど、「同じように困っているのになんで支援がないんだろう」と疎外感があったようでした。いろんな立場、いろんな思いを持っている人がいたのです。

 

私は「災害で岡田を分裂させてはいけない」と思いました。公民館などで人が集まれるようになった時には「岡田全体が被災者なんだよ」「最初に公民館の片づけを手伝ってくれたのはこの人たちだよ」と声を大にして伝えるようにしていました。

 

人が集まる場を作り、なんとかして情報を発信

まちづくり推進協議会

 

―まちづくり推進協議会として、どのような取り組みをしていましたか?

 

岡野:
私の家は幸いにも140cmの浸水だったから、早い段階で片付けができました。8月1日には岡田分館に出て、岡田サテライトの手伝いや岡田分館の片付け、支援物資のやりとりなどをしていました。

 

役員を集めたのは9月9日でした。岡田分館は2m浸水したので、パソコンも、印刷機などの機械も、資料も何もなく、電気も来ていない状態でした。何もなくてもまずは役員の状況を聞いて、顔を合わせて何ができるか、みんなで話し合いをしたかったのです。

 

でも当時は、みんな自分のことで精一杯。「自分たちが被災しているのに、人のことができるんか」と言われました。私は岡田が分裂しないか心配だったので「何かしないとこのままだったら岡田が潰れてしまう。できることからやろう」と訴えました。そこでパソコンを1台買い 、役員や地域の人に情報が伝えられるよう準備を始めました。

 

実は、役員を集めた時には、9月24日に岩手県大船渡市の方がサンマを持って、炊き出しに来てくれることが決まっていたのです。当日までに体制を整えて、役員全体で取り組みたいと思っていました。

 

―情報を伝える手段がなくなっていたのですね。

 

岡野:
そうです。水に浸かった筆記用具、機械などすべてが被災ゴミとなり、岡田分館の外に出されていました。水道は出るようになったので、外に出されたゴミの中から、使えそうなものを拾っては洗って乾かして使いました。まち協からのお知らせや行事の予定をカレンダーの裏に書いて、掲示していました。

 

しかし、印刷をしたくても機械がなくなったので、公民館や真備支所に行ってお願いをしていました。自由に印刷できる場所を作ってほしいと思ったのは、私だけでしょうか。また、印刷できても配布する方法がなく、幼稚園や小学校に配布をお願いしていました。10月からは配布物を罹災家庭に郵送できるようになったので、少しほっとしました。

 

多くのイベントを行い、団結した岡田

まちづくり推進協議会

 

―岡田地区は炊き出しなどのイベントを多くおこなっていた印象があります。

 

岡野:
被災後、初めてイベントをしたのは子どもたちの大行灯を飾った「小さな夏祭り」で8月4日でした。他のイベントの再開希望も多く、とくに希望が多かった「歌声喫茶」は9月16日に開催しました。シニア俱楽部が主催するイベントで、災害前から人気があったんです。

 

集会室の床はなくなっていたので、みんなでベニヤ板をもらってきて床を張りました。汚れた壁には布を貼り、被災ゴミになっていた椅子や机は洗って並べ、会場を作りました。当日は140人も集まり、久しぶりの再会に喜びの涙、歌声喫茶の再開に感動の涙で嬉しい時間を過ごせました。

 

まちづくり推進協議会

 

―みんなで集まる場ができて、安心感もあったのでしょうね。

 

岡野:
当日は会場のなかに入らず、抱き合ってワーワー泣いているばかりでした。「久しぶり」「元気だったか」と、互いの無事を確認する場になっていました。「はよ入らないと始まらんがな」と声をかけないといけなかったくらいでした。とはいえ、やっぱりみんな集まりたかったんだなあと思いました。

 

先ほど“岩手県大船渡市からさんまが届く予定だった”と話しましたが、9月24日に「さんま祭り」を開催しました。600匹ものさんまを持って来て、“サンマ焼き師”が焼いてくれたんです。大船渡市との交流は、2005年の岡山国体までさかのぼります。軟式野球チームを真備町で民泊を受け入れたのが始まりで、その後も交流は続いていました。

 

それからはイベントが続き、10月13日「秋祭り」、11月24日「1000人の金田一」、12月23日「ふれあい朝市」・「クリスマスコンサート」、平成31年1月20日「新宿ともしび歌声喫茶出前コンサート」、2月23日「グラウンドゴルフ」、3月9日「MIHO美学園交流会」など数多く開催しました。ピースボートの炊き出しは月に2回、東北支援機構よりパンや弁当の支援が月に1回、その他いろいろなイベントが開催されました。

 

―周りからの反響はいかがでしたか?

 

岡野:
嬉しかったのは、被災して岡田地区外で生活を余儀なくされた人たちが帰ってくるきっかけになったことでした。

 

片付けは災害発生後1ヶ月くらいでだいたい終わるから、岡田に戻ってくる頻度が少なくなるのです。「岡田が気になるから戻りたいんだけど……」と思い始めた頃に、“歌声喫茶があるらしい”と口コミを広げることができました。

 

おかげで多くの人たちの協力を得ることができ、たくさんのイベントを開催できました。新しい仲間もできたので、「これから何ができるか」をみなさんと考えていきたいです。